もう普通を目指さない!発達凸凹母が見た発達障害兄弟の生態

ADHD+ASDの息子2人との普通じゃない日常

ジジババを啓蒙

1年に数回は実家に帰る。
そうなると待ち受けているのが、子どもたちについての説明だ。
わたしと父母の仲は、すこぶる良いというほとではないが、悪くはない。しかし、子どもがいなければ、数年に1度くらいしか実家には帰らないだろう。そんな関係だ。

子供たちが発達障害だということは伝えてある。母も本を読んだりして理解してくれようとはしている。ただ、年配の人間にわかってもらうのは非常にむずかしい。
ネットでも、「子供たちが祖父母に罵倒されるので、子育てがうまくいかない」という投稿もみたことがある。

どうしても目に見えない障害はただの「わがまま」に見えてしまうからだ。生活する上で、「生きづらさ」や「困り事」があっても「我慢すべきこと」であり、「みんな我慢していること」という思いが強いのだと思う。
それが団塊の世代という世代によるものなのか、年配の人ということによるものなのか、はたまた個人の考えによるものなのかはよくわからないが、わたしの父母はそういう人であるということだ。

いろいろな料理を作ってくれても、偏食だから食べないものも多い。
基本的には家にいるのと同じ行動をする。ゲームをしたり動画を見たり絵を書いたり。
あいさつをしない。
お風呂に入らせようとしたり寝かせようとしてもすぐには行動しない。

わたしにとっては、お馴染みの行動。父母も子供たちが生まれてからもう何年も経つので、今さら驚きはしない。
ただ、常に
「わたしたちだから大目に見てあげているのよ」感がつきまとう。
発達障害だといってももっとちゃんとしつけなきゃ」感。
「ちゃんとしつければ、ちゃんとできるようになるから」感。
「もっと我慢させなきゃ」感。
「そうしないとまわりの人が困るんだから」感。

そういった感じは、わたしの被害妄想かもしれない。でも実家にいると実はすごく気を遣う。


去年、長男が担任の先生に私語を注意されたとき、他の子も私語をしていたのに、自分だけ注意され、先生に「あなたしか見えてなかったから」と言われ、「先生がたまたま見たものだけ注意するのは良くないんじゃないですか?」と授業が終わってから口論になり、その後廊下に立たされたというちょっとした事件があった。

間違っているものや曖昧なものをそのままにしておけない長男の特性を面白いものとして、父母に話したところ、長男が相当に非難されるという結果になってしまった。
「先生にそんな風にいってはいけない。偉そうにするんじゃない」
「そんな先生もいるんだから、納得できないならできないで我慢しなさい」

先生は敬うものでそんな言い方をしちゃいけない。
それに世間を渡っていく上で納得できないことなど数多くある。そんな不条理だって我慢できなきゃ生きていけないだろう。
言いたいことはよくわかる。

でも今の現状の長男からすれば、ギリギリ美徳といえるような特性。
それを非難するようなことは言ってほしくなかった。おかしいと思うことをおかしいといって何が悪いのか。人の立場を忖度しなければいけないのか。
先生にそのような子供の気持ちを汲み取ってもらえるよう要求したり、大人の余裕をもってほしいと求めるのは、行き過ぎなのか。

誰かが我慢をしなければいけないのなら、それは子供でなく大人であるべきであると思う。

遠慮したりおもねったり諦めたりで、先生の力量不足を指摘しなければ、インクルーシブ教育やひいてはインクルーシブな社会なんて夢のまた夢だ。

諦めずに発達凸凹の子供たちの特性について訴え続け、歩みよれる部分は歩み寄るようにお互いが努力しなければならない。発達凸凹な子供たちを無理やり定型発達の子供や大人や既存のルールに合わせさせるのではなく。

だから実家に帰るとついつい熱くなってしまうのだが、理解してもらうのはなかなかむずかしい。
そして、足が遠のいたり、滞在日数を少なくしようとしてしまうのだ。