ちょうどいいハンデ
こないだ勝間和代さんのネットの記事について書いた。
薬を飲む必要のある発達障害者も薬を飲んでいることを表明できるようになればいいのにというようなことが書いてあった。
自分の特性を知り、快適を保つための対処として、薬を飲むのは当然のことである、と。
本当にそれはそうで、薬を飲んで少しでも、本人およびまわりの人が快適に過ごせるなら、薬を飲んだ方がいいと思う。
必要がなくなったのならやめればいいし。
薬を飲み続けることに否定的な発達障害児の親御さんもいることも知っているけど。
わたしも実際、薬がどれくらい効いているかはよくわからないけど。
それよりもそういう特性があるから、薬飲んでますということをすんなり受け入れられるような社会になるといいなと思う。
花粉症の人が花粉症の薬を飲むように。
偏頭痛もちの人が薬を携帯しているように。
喘息の人が吸入するように。
貧血の人が鉄分を補う薬を飲むように。
だれも症状を緩和することを非難しない。
それに本人も気楽にカミングアウトしてるし。
当然受け入れてもらえるものとして。
そして当然気遣ってもらえるもの、配慮してもらえるものとして。
「この時期は花粉症で辛いの」
「きょうは偏頭痛が辛くて」
「貧血でフラフラするの」
自分にはこんなハンデがあるの、と声高に言う。
だから辛い思いもしてるのよ、と。
すべてがハッピーでなんにも支障がない人生というのは、なんとなく気後れするものである。
人生におけるハンデとしては、ちょうどいいのだろう。
まだ、発達凸凹はそのちょうどいいハンデにははいっていない。
そんなふうに思う。