もう普通を目指さない!発達凸凹母が見た発達障害兄弟の生態

ADHD+ASDの息子2人との普通じゃない日常

これって結局普通を目指しちゃってるのか?

普通を目指さない!などと言いながらも、結局目指しちゃってるやん!!というジレンマ。

子供たちが定型発達児のような「普通」になれないということはわかっていながらも、できるだけ普通に近づかせたいと思っているんじゃないかと自問自答することがある。

放デイに通わせ、通級に行かせたいとのぞみ、療育をうけようとすることは、彼らの個性や特性を否定しようとする気持ちがあるからじゃないのかと考えることもある。

彼らの個性や特性をそのままに自然体にさせておいてあげればいいじゃないか。多様性を認めてくれる世の中になってきたし、案外生きていけるんじゃないか。生まれもった個性を矯正するようなことしちゃいけないんじゃない?十人十色なんだし。そのほうが絶対面白いって。などと楽観的、自然体主義的な考えが浮かぶこともある。

何が彼らにとって、幸せなんだろう。それもあるけど、わたしたち親にとっては。

もちろん彼らの幸せが一番だよ!ときれいごとを言うことは簡単だ。でも一生、わたしたちが面倒をみてあげることはできないし、そもそも早々に子育てを引退したいんだ、わたしは!わたしが安心して、手を離せるようになってもらわねば困る!家も出て一人立ちしてもらわねば困る!

ということで、必死に個性を圧し殺してまでも「普通」を目指さないが、最低限、ひとりで生きていくことができるくらいの社会性は身につけるというところを着地点とすることとしようかな。

宇宙人ではあるけれど、地球人と話すことのできる能力。宇宙人ではあるけれど、地球人の習慣などを理解しようと思う気持ち。宇宙人ではあるけれど、せっかく地球に来たんだし、少しは郷に入れば郷に入ってみようかなと思えるような柔軟性。

目がよく見えるようになるためのメガネ、泳げないけど溺れないようにするための浮き輪、たくさんの距離を歩けるようなクッション性のあるシューズ。

たとえばそんなツールのようなイメージなんだ。今やってることは。
そんな風に思っている。