やれないこと・苦手なことの克服よりもできることをさがす
やれないことをできるようにしてあげる、ゆくゆく困らないように。
習い事もそう、できないことをできるようになるようにするもの。
と、思っていた。それが家庭の教育だと。つとめだと。
長男が年長さんになったころ、スイミングに通わせるようになった。
「この子はなんでもすぐに習得できる子じゃないから、学校の水泳の授業だけじゃ泳げるようにならないだろう。水泳の授業今から習わせておこう」
小学校に入るまでには、クロールだけならそこそこ泳げるようになっていたと記憶している。水泳の授業も憶さず参加できた。
「この子はあんまり運動神経がよくないから、普段から運動させておかないと、中学校でいきなり部活とかは無理だろう。小学校に入ったら何かスポーツをさせよう。スポーツ少年団でサッカーをやらせよう」
確かに普段から運動していると、小学校の体育のレベルではまず問題なくすごせる。その結果やったことのないスポーツに対しても積極的に取り組んで、体育の授業に苦手意識はなさそうだ。
そう、確かにそういう意味では成功した。なぜなら、妥協のできる健常者だからだ。長男も発達障害かも?と思われる部分が多少あるにはあるが、香りのする程度だ。
家で遊んでいたいけど、習い事の時間だ。でも親がそんなに言うならやってみようか。ああ、やり続けてみたら意外と楽しいかも。なんか上達してきたみたい。今度はもっと上手にできるかも。けっこう好きになってきたかな。
と親が思わずニヤッとしてしまうような想定内の行動、心情。上達の度合いに早い遅いはあるが、誤差の範囲。
もちろん最初からこれやりたい!!という積極的な子どももいるとは思うが、結構まれだと思う。
ところが、発達障害の子どもはこんな想定やあらすじなどなんのその。まったくどこ吹く風。
やりたくない。全然やりたくない。おもしろくない。うちでゲームして遊びたいのに。なんでこんなとこいなきゃいけないの。そんなに言うならちょっとやってみる??全然うまくできないじゃん。だからやりたくないっていったのに。
次男にも長男の時の成功体験があるから、スイミングにも年中から行かせましたとも。さいしょの1年くらいはほぼずっとプールに浸かっているような状態。おっきいおふろにはいってますみたいな。
次の1年で何とか浮く、バタ足、腕をまわすくらいの習熟度。それでも彼だいぶがんばった方だとおもう。何とか少しずつ好きになって、通い続けている。
前にも書いたが、少年団のサッカーに関しては、
靴を履くところから難渋。自分の気に入った強さに締めれるまで、履きなおす。
そんなことをしているから当然集合時間にはまにあわない。自分の予定との乖離がありすぎてパニック。もうやれない。グランドががどろんこの日は、そんな地面を踏めない。コーチに言われたとおりにできない。できるわけないとごねる。友達にボールを奪われる。悪態をついて友達を蹴る。集合!といわれて集合できない。集団から離れ遊具であそぶ。砂遊びをする。
10ヶ月くらい粘ってみたが、ギブアップ。どうにもならないんだなぁ。本人だってわざとそういうふうにしているんじゃないんだし。最終的には痛いくらい良く分かった。本人の努力不足でもなんでもなく、そういうものなのだと。
親も子もどれだけや努力してみてもできないものはある。
習得するとなんか将来的によさそうとか、できたら学校でこまらないよねとか、かっこよくってもてるかもとか、そんな親の夢や目標で選ぶのではなく、すきなことをやらせてあげることにした。考えてみたら当たり前なんだけど、そういう視点を今までもつことができなかったんだなぁ。
次男は大好きな絵を習うようになった。個性を大事にしてくれる良い先生に出会った。とても楽しそう。とてもいきいきしている。