もう普通を目指さない!発達凸凹母が見た発達障害兄弟の生態

ADHD+ASDの息子2人との普通じゃない日常

こうでなければならない症候群

こうでなければならないと子供がうまれてから、ほとんど最近までずっとおもっていた。

子供がいないときにもそういう風におもってたんだろうけど、こうでなければという思いとこうできたという現実の結果にあまりギャップがなかったんだろう。

それに比べて、子供というのは、自分がこうであってほしい、こうでなければという思いと現実のギャップが大きすぎた。

だって発達凸凹の宇宙人だもの。それはそう。でも最近まで知らなかったから、ずっとわたしのこうでなければという思いと現実とのギャップに苦しめられ続けた。
そんなん、子供やもん。そりゃ思いどおりにいくわけないやんと割りきれるのが普通の地球人。
でもわたしも発達凸凹だから、わたしの描いた絵の通りにいかないと許せなかったり、あせったり、パニックになったり、苛立ったり、子供のせいにしたりした。

それは、発達障害の特性の1つとして、完璧主義というものがあるから。

この特性のせいで、勉強でも遊びでも何でも完璧にできなければ気が済まない。少しでもうまくいかなかったり失敗しそうになると、かんしゃくを起こす。それとともに自分をひどく責める。だんだん失敗を恐れて何も行動できなくなってしまう。
さらに、自分だけでなく他の人にも完璧を求める傾向があり、人とのトラブルの原因にもなる。

この完璧主義、わたしにも2人の息子にもある。

息子たちの完璧主義がどのように表出するかは、今度書くとして、今回はわたしの話。

子育てをしていく上で、参考にするのは多々ある育児書、さらにたまひよなどの雑誌。

おーおー、そうなんだ、へーと勉強熱心で基本的に真面目なわたしは妊娠中から勉強する。

子供が生まれたらこうなんだ、ああなんだとすでに私の頭には描く絵がいっぱい。

でもいざ生まれてみると、飲まない、食べない、寝ない、大きくならないのないない尽くし。
なに?なんなの?その時は宇宙人を生んだなんてまったく気づいていないし、混乱の極み。
ずいぶん後になって、というかやっと最近これは宇宙人だったからなんだと気づいた。
感覚が過敏で少しの物音にも起きる。偏食。動きが激しいので、摂った栄養が全部消費される。
もうすでにわたしの描いた絵とは大きな乖離がある。え?なんで?こうじゃなきゃいけないのに。

少し大きくなって、児童館へも連れて行ってみた。
他の子に興味を持って触れ合うはず。音楽がなったら踊りだしたりするはず。しない。しないよ、宇宙人だもの。

さらに大きくなって、保育園にはいった。お、なんかお遊戯とかちゃんとやってるじゃないか。かわいい。やっと子供らしくなってきたかも。
みんなはそろそろ、戦隊ヒーローとか仮面ライダーとかにはまるころ。みんなそれを見たくって日曜日の朝も早く起きるんじゃないの?起きない。そっか、じゃあママ、ビデオ撮っておいてあげるからね。ビデオで一緒に見よ。見ない。うーん。ほら変身ベルトとか欲しいんじゃないの?うーん、どうかなー。ママがそんなに言うなら買ってもらおうかな。

同世代の子供が興味を持つものにまったく興味を持たないと親は不安になる。わたしは不安になった。同様に電車、恐竜など他の子供がおよそ興味を持ちそうなものにはまったく興味を持たなかった。わたしが安心したいがために次から次へと先回りしていつか興味を持つと信じ、あたえていただけに過ぎなかった。そのころ長男が興味を示したのは、漢字だった。あと交差点にかかっている○○町とか○○3丁目、○○通などの標識。標識っていうのかなあれ?車で通るたびに読み上げ、記憶した。

保育園でつくる作品の展示。あーみんなかわいい。ヒーローの絵、キャラクターの絵、虫、恐竜が描いてある。長男の絵。もはや絵ではない。漢字の羅列。こわい。恥ずかしい。他の親さんがみつけて、もうこんな字知ってるの?すごーいといった。でもわたしは、恥ずかしかった。あまりにも他の子供と違うことを恥じた。「普通」になりたかった。でもそれは自分が努力すればなれるものでもなく、ただ無力だった。

小学校にはいった。保育園の時にあまり運動ができなかったことから、(発達凸凹の子供は手足を動かすことが不得手なため、運動のできない子供が多いとされている)運動をやらせたかった。夫がサッカーが好きなこともあり、家族で応援できると思い、スポーツ少年団でサッカーを始めさせた。今では考えられないが、ちいさい時は不平不満を言わない子供だった。わたしに言われるがままに、サッカーを始めた。小さい子がやるサッカーはとてもかわいい。ぶかぶかな服を着て、ボールを蹴っている様子のなんとかわいいこと。やっとわたしの「こうでなければならない欲」が満たされた。でもそんなうまくいくわけがない。ボールが上手に蹴れない。インサイドキックができるようになった子から、全体の練習に入れるよとなったとき、最後までインサイドキックができなかった。もはやわたしの描いた絵はぐちゃぐちゃ。その後の過程については以前、スポーツ少年団のことについて書いたときに書いたとおり。

次男に至っては言うも及ばず(笑)。わたしの思い描いた絵の通りにいった部分は、ヒーローものや恐竜といった子供が興味を持ちそうなものにすべからくはまっていった点くらいだ。でもそれはいささかわたしの思う以上のはまり具合で、発達凸凹さんを想起させるものであって、わたしの思い描いた絵の通りではなかった。

結局、わたしの「こうでなければならない」「こうであるべき」「こうであるはず」という絵は完全に破綻した。子供たちに世間一般の「普通」の枠の中にいることを強要してしまった。しらずしらずのうちに。
自然に「こうでなければならない」と思ってしまうので、完全にそうならないようにするのは無理だ。でもできるだけそこからわたし自身や子供たちを、それから夫を解放していかなければ楽しい未来はないということも最近やっとわかった。